信州日報が事実上の廃刊

メディア 日記

長野県の下伊那地方で独自の個性を放っていた地域紙『信州日報』が先月末で休刊し、発行元の信州日報社(長野県飯田市)も自己破産を申し立てる方針であると、複数の知人が教えてくれた(信州日報は公式サイトを運用していなかった)。

長野県の中南信地区は地域紙同士の競争が激しい土地柄ではあるが、諏訪や上伊那に比べ下伊那地方の経済状況は比較的明るいはずで、何とか手だてがなかったのかと思えてならない。十年ほど前までは競合紙との間に微妙な棲み分けもあったはずである。

信州日報とは、諏訪で暮らしていたころ、仕事上の接点を持ったことがある。もう時効のはずだし、何かの資料にもなるだろうからこのブログで振り返っておくことにする。

私が長野日報社に在職していた十数年前、労働争議が収束したばかりの信州日報から長野日報に対し、印刷を委託したい旨の申し入れがなされたことがあった(労働争議の内容については地元に詳しい人がいるはずなので、ここでは触れない)。
そのころ、経営状態が決してほめられたものではなかった長野日報側は、この申し入れを収入増やさまざまな提携のチャンスととらえ、印刷受託に向けた検討を行った。当時はシステム屋も兼務していた私は、紙面の送受信が技術的に可能かどうか、早急に結論を出すよう求められたのだった。

偶然だったのだが、信州日報も長野日報も、組み版された新聞紙面のデータを印刷用のフィルムや刷版に出力するための紙面展開用ソフト(RIPと呼ぶ)は、英国で開発された同じエンジンを利用していた。展開後のデータ形式も同一だったのだ。
実機テストや検討の結果、その頃紙面伝送用で使われていた松下電送(現在のパナソニックSSインフラシステム)製の紙面伝送装置(いわゆるTーCONやRーCONである)を導入せずに、必要最小限のシステム改修のみで紙面の送受信は可能であるとの結論になった。紙面伝送回線には、長野県内で始まったばかりの広域イーサネットサービスを利用する計画だった。

しかし、この話は長野日報サイドの“大人の事情”が災いになって沙汰やみとなり、信州日報の印刷は結局、競合紙であった『南信州新聞』の輪転機(正確には子会社の伊那谷オフ輪)によって、休刊まで賄われることとなる。
歴史を振り返るときに「たら・れば」は禁物だが、長野日報が信州日報の賃刷りを受けていれば、今ごろは両社とも違う展開をしていたのではと思えてならない。

それにしても、最後まで新聞製作に取り組んだ皆さんの無念さは察するに余りある。今後の人生に幸多いことを願わずにはいられない。

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