豊島八十八カ所巡り(21)

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3月に始めた豊島八十八カ所巡りも、残りはわずか。12月13日と15日に、板橋区内などの残りの札所を回ってきた。

 

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札所43番 金剛寺

JRの王子駅から石神井川に沿って板橋方向にしばらく歩くと、左側に大きな伽藍が見えてくる。そこが、札所43番の金剛寺だ。駅からは少し離れているが、大きなスーパーなどもあって付近は賑やかだ。

金剛寺は真言宗豊山派のお寺で、本尊は不動明王。弘法大師が東国を巡錫した折、石神井川を渡るために橋を架け、その際に不動明王像を彫り、橋の付近に祀ったのがお寺の開基とされている。

このお寺の別名は「もみじ寺」。徳川8代将軍吉宗が、金剛寺を中心に紅葉の木を植えさせ、付近が紅葉見物の名所となったことに由来する。歴代の歌川(安藤)広重によって、紅葉見物の賑わいが版画に描かれている。

境内には「滝野川七福神」の石柱が建つが、いくつかの社寺が集まった七福神霊場ではなく、金剛寺の境内だけで完結する「1カ所七福神」だ。山門を入って右側にある弁天堂を中心に、七福神が祀られている。
その弁天さまは、滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」にも登場するくらい、歴史の古いもの。他の神様は、露座の小さな石像なので、境内をよく探そう。ちなみに七福神の御朱印はないので、その点はご注意を。
お寺のある一帯は、源頼朝が武蔵国に攻め入った折、陣を取ったという言い伝えが残る。
(金剛寺 東京都北区滝野川3-88-17=2009年12月13日巡礼)

 

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札所12番 寿徳寺

金剛寺で道順を教えてもらい、札所12番の寿徳寺に向かう。金剛寺からだと石神井川をさらにさかのぼるように歩き、写真にある「谷津大観音」が見えたら、右側の路地を入ると山門に出る。直接向かう場合は、都営地下鉄三田線の新板橋駅から歩いて7~8分だ。

寿徳寺は真言宗豊山派のお寺で、本尊は秘仏の聖観世音菩薩。お寺のできた時期や経緯についてはいくつかの説があるが、鎌倉時代の開基とみて間違いないようだ。

お寺の別名は「谷津子育て観音」。その名の通り、子育てに霊験あらたかな観音さまとして、古くから信仰を集めている。寿徳寺は新撰組隊長・近藤勇の菩提寺としても知られ、山門の脇にはそのことを記した石柱が建っている。その墓はJR板橋駅近くの寿徳寺の境外墓地にあって、毎年4月25日の命日前後に、盛大な供養祭が行われている。

冒頭に登場した「谷津大観音」も、寿徳寺の境内の一部。志半ばで先代のご住職が亡くなられ、思いを受け継いだ現在のご住職により、2008年12月に開眼法要が行われたばかり。像高4.5メートル、総高8.5メートルの堂々たる観音さまである。
(寿徳寺 東京都北区滝野川4-22-2=2009年12月13日巡礼)
※寿徳寺の公式ホームページはこちら

 

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札所18番 文殊院

寿徳寺最寄りの新板橋駅から地下鉄に乗り、板橋区役所前で降りて札所18番の文殊院へ。途中には札所71番の遍照寺もあるが、こちらはお留守だった。このお寺のある一帯、昔の中山道板橋宿周辺は豊島のお札所が集まっているエリアだ。地下鉄の駅からは歩いて7~8分である。

文殊院は真言宗豊山派のお寺で、本尊は文殊菩薩。板橋宿の仕切り役だった本陣・飯田家の菩提寺として、現在も山門脇に祀られる延命地蔵尊の境内を広げる形で、江戸時代初めに創建されたといわれている。

このお寺、古くは「出世寺」という愛称で親しまれていた。安政年間以降の正規の住職がいなかった時期に、仮住職として赴任してきたお坊さんが短期間で大きな寺に移ったことから、この愛称がついたのだという。今は正規のご住職がお寺を守られている。本尊は知恵を授けてくださる文殊菩薩だし、このお寺の草創は延命地蔵尊。おまけに先の伝承とくれば、「リストラ除けにご利益があるかも」と考えるのは、当サイト管理人だけだろうか…。

本堂の前には、ミニチュアのような鐘楼があり、参拝者が撞けるようになっている。ただ、法要中など本堂で行事が行われているときには遠慮しよう。戻り鐘がタブーなのは、お四国と同じである。
(文殊院 東京都板橋区仲宿28-5=2009年12月13日巡礼)

 

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札所49番 日曜寺

札所49番の日曜寺には、日を改めて出かける。都営地下鉄三田線の板橋本町駅からも、18番文殊院からも歩いて6~7分である。

日曜寺は真言宗霊雲寺派のお寺で、本尊は愛染明王。今から300年ほど前の正徳年間、宥慶和尚が小さなお堂を建てたのが開基とされる。その後、徳川8代将軍吉宗の子・田安宗武の帰依を受けて再興され、お寺の基盤を確立した。

山門に掛かる扁額は、「寛政の改革」で知られる、老中の松平定信の筆によるもので、板橋区の登録有形文化財。定信は宗武の子に当たり、代々日曜寺に帰依していたことがうかがえる。 当時の伽藍は空襲で焼失し、現在の本堂は1970(昭和45)年に再建されたもの。

本尊の愛染明王は水商売関係のほか、「藍染」に通じるとして染色業者からの信仰が厚いとされ、山門付近の玉垣には、芸妓組合や染色関連業者らの名前が刻まれる。お寺付近の商店街にも「愛染」の名が付けられていて、往時の賑わいを今に伝えている。縁結びのご利益もあるそうなので、婚活中の善男善女もぜひお参りを。
(日曜寺 東京都板橋区大和町42-1=2009年12月15日巡礼)

 

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札所71番 遍照寺

日曜寺から旧中山道に出て、賑わいをみせる板橋宿の商店街を通り、札所71番の遍照寺へ。日曜寺からは歩いて10分少々、地下鉄の板橋区役所前駅からは5分ほどである。

遍照寺は真言宗智山派のお寺で、本尊は不動明王。1662(寛文2)年、当時は近隣で唯一の天台宗寺院として創建したが、廃仏毀釈の波にのまれて明治初めに廃寺。その後、成田講の道場として1881(明治14)年、朝日不動堂として復活し、戦後の1947(昭和22)年に寺格を得て、現在は成田山新勝寺の末寺となっている。

うなぎの寝床のような、間口の狭い敷地の一番奥に住居兼用の小さな本堂があるが、入り口が分かりにくい。
商店街にある「おかしのまちおか」の向かい、小さな喫茶店脇にある「旭不動堂」と刻まれた豊島札所の石柱と、区教委の解説板が表札代わりだ。

境内は宿場の馬つなぎ場になっていて、参道の脇には馬頭観音が祀られている。本堂には、豊島八十八カ所の原型の一つとされる豊島二十一カ所の納め札所となっていたことを示す扁額が、豊島八十八カ所のものとともに今なお掲げられている。昔の人の信仰の篤さを示すものと言えるだろう。
(遍照寺 東京都板橋区仲宿40-7=2009年12月15日巡礼)

 

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札所88番 観明寺

さあ、残る札所はあと一つ。遍照寺から旧中山道の商店街をJR板橋駅方向に進み、札所88番の観明寺に向かう。地下鉄の板橋区役所前からも、71番遍照寺からも歩いて5分ほどだ。

観明寺は真言宗豊山派のお寺で、本尊は聖観世音菩薩。1338(暦応元)年の開基で、1677(延宝5)年の中興開山と伝えられている。

このお寺も文殊院や遍照寺とともに江戸時代の板橋宿の中にあり、古くから信仰を集めていた。明治6年には、地域の繁栄を願おうと千葉の成田山から不動明王の分身を勧請。「出世不動」として、現在でもお参りの人が絶えない。お寺の前の商店街が「板橋宿不動通り商店街」と名付けられているのは、このお寺に由来する。

境内にはこのほか、もともとは加賀藩の江戸下屋敷にあったというお稲荷さまも祀る。参道入り口の庚申塔は、青面金剛像が彫られたものとしては都内最古で、現在は区の指定有形文化財だ。

観音さまやお不動さま、それにお稲荷さま…私たちのあらゆる願いや悩みを聞き届けてくれそうな、結願所にふさわしいお寺である。一見すると街中の普通のお寺だが、本堂の前には線香の煙が絶えない。現在でも地域からの信仰を集めている証だろう。
(観明寺 東京都板橋区板橋3-25-1=2009年12月15日巡礼)

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発願から9カ月。途中で思わぬアクシデントもあったが、年内に結願することができた。

都内の遍路というと、お四国に比べて楽そうなイメージがあるが、正直なところなかなか大変だった。本四国とは違って檀家寺ばかりの構成で、お札所の事情によって何度も同じ寺を訪ねることになった。また、お寺が無住になっていて納経所が人知れず変更されていたケースもあり、情報が少ない霊場を巡礼する難しさも実感した。
歩いた距離は150キロほどのはずなんだが…。

札所一覧の地図や朱印の一覧は近日中に整備しようと思っているし、巡礼の記録を何らかの形で後世に伝えたいとも考えている。

さあ、次はどこの札所を回ろうか…。

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