御朱印

板橋七福神巡り

お出かけ 七福神 寺社巡礼 弘法大師霊場 御朱印 日記 豊島八十八カ所 霊場巡礼

このところ、お正月の恒例行事と化している七福神巡り。
今年は、都内の「板橋七福神」にお参りした。

こちらの七福神は、実はすべての寺院が豊島八十八カ所のお札所とかぶっている。ということで参拝記はごく簡単に、祀っている神さまと札所名の対比のみにさせていただく。

弁財天=豊島1番・安養院
布袋尊=豊島80番・西光寺
福禄寿=豊島50番・長命寺
恵比寿=豊島88番・観明寺
大黒天=豊島82番・西光院
毘沙門天=豊島18番・文殊院
寿老人=豊島61番・能満寺

一回り歩くと10キロ以上。バスや電車を使うより、歩きや自転車で回った方が効率的。
参拝受け入れは7日まで。

豊島八十八カ所巡り(21)

お出かけ 寺社巡礼 弘法大師霊場 御朱印 日記 豊島八十八カ所 霊場巡礼

3月に始めた豊島八十八カ所巡りも、残りはわずか。12月13日と15日に、板橋区内などの残りの札所を回ってきた。

 

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札所43番 金剛寺

JRの王子駅から石神井川に沿って板橋方向にしばらく歩くと、左側に大きな伽藍が見えてくる。そこが、札所43番の金剛寺だ。駅からは少し離れているが、大きなスーパーなどもあって付近は賑やかだ。

金剛寺は真言宗豊山派のお寺で、本尊は不動明王。弘法大師が東国を巡錫した折、石神井川を渡るために橋を架け、その際に不動明王像を彫り、橋の付近に祀ったのがお寺の開基とされている。

このお寺の別名は「もみじ寺」。徳川8代将軍吉宗が、金剛寺を中心に紅葉の木を植えさせ、付近が紅葉見物の名所となったことに由来する。歴代の歌川(安藤)広重によって、紅葉見物の賑わいが版画に描かれている。

境内には「滝野川七福神」の石柱が建つが、いくつかの社寺が集まった七福神霊場ではなく、金剛寺の境内だけで完結する「1カ所七福神」だ。山門を入って右側にある弁天堂を中心に、七福神が祀られている。
その弁天さまは、滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」にも登場するくらい、歴史の古いもの。他の神様は、露座の小さな石像なので、境内をよく探そう。ちなみに七福神の御朱印はないので、その点はご注意を。
お寺のある一帯は、源頼朝が武蔵国に攻め入った折、陣を取ったという言い伝えが残る。
(金剛寺 東京都北区滝野川3-88-17=2009年12月13日巡礼)

 

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札所12番 寿徳寺

金剛寺で道順を教えてもらい、札所12番の寿徳寺に向かう。金剛寺からだと石神井川をさらにさかのぼるように歩き、写真にある「谷津大観音」が見えたら、右側の路地を入ると山門に出る。直接向かう場合は、都営地下鉄三田線の新板橋駅から歩いて7~8分だ。

寿徳寺は真言宗豊山派のお寺で、本尊は秘仏の聖観世音菩薩。お寺のできた時期や経緯についてはいくつかの説があるが、鎌倉時代の開基とみて間違いないようだ。

お寺の別名は「谷津子育て観音」。その名の通り、子育てに霊験あらたかな観音さまとして、古くから信仰を集めている。寿徳寺は新撰組隊長・近藤勇の菩提寺としても知られ、山門の脇にはそのことを記した石柱が建っている。その墓はJR板橋駅近くの寿徳寺の境外墓地にあって、毎年4月25日の命日前後に、盛大な供養祭が行われている。

冒頭に登場した「谷津大観音」も、寿徳寺の境内の一部。志半ばで先代のご住職が亡くなられ、思いを受け継いだ現在のご住職により、2008年12月に開眼法要が行われたばかり。像高4.5メートル、総高8.5メートルの堂々たる観音さまである。
(寿徳寺 東京都北区滝野川4-22-2=2009年12月13日巡礼)
※寿徳寺の公式ホームページはこちら

 

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札所18番 文殊院

寿徳寺最寄りの新板橋駅から地下鉄に乗り、板橋区役所前で降りて札所18番の文殊院へ。途中には札所71番の遍照寺もあるが、こちらはお留守だった。このお寺のある一帯、昔の中山道板橋宿周辺は豊島のお札所が集まっているエリアだ。地下鉄の駅からは歩いて7~8分である。

文殊院は真言宗豊山派のお寺で、本尊は文殊菩薩。板橋宿の仕切り役だった本陣・飯田家の菩提寺として、現在も山門脇に祀られる延命地蔵尊の境内を広げる形で、江戸時代初めに創建されたといわれている。

このお寺、古くは「出世寺」という愛称で親しまれていた。安政年間以降の正規の住職がいなかった時期に、仮住職として赴任してきたお坊さんが短期間で大きな寺に移ったことから、この愛称がついたのだという。今は正規のご住職がお寺を守られている。本尊は知恵を授けてくださる文殊菩薩だし、このお寺の草創は延命地蔵尊。おまけに先の伝承とくれば、「リストラ除けにご利益があるかも」と考えるのは、当サイト管理人だけだろうか…。

本堂の前には、ミニチュアのような鐘楼があり、参拝者が撞けるようになっている。ただ、法要中など本堂で行事が行われているときには遠慮しよう。戻り鐘がタブーなのは、お四国と同じである。
(文殊院 東京都板橋区仲宿28-5=2009年12月13日巡礼)

 

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札所49番 日曜寺

札所49番の日曜寺には、日を改めて出かける。都営地下鉄三田線の板橋本町駅からも、18番文殊院からも歩いて6~7分である。

日曜寺は真言宗霊雲寺派のお寺で、本尊は愛染明王。今から300年ほど前の正徳年間、宥慶和尚が小さなお堂を建てたのが開基とされる。その後、徳川8代将軍吉宗の子・田安宗武の帰依を受けて再興され、お寺の基盤を確立した。

山門に掛かる扁額は、「寛政の改革」で知られる、老中の松平定信の筆によるもので、板橋区の登録有形文化財。定信は宗武の子に当たり、代々日曜寺に帰依していたことがうかがえる。 当時の伽藍は空襲で焼失し、現在の本堂は1970(昭和45)年に再建されたもの。

本尊の愛染明王は水商売関係のほか、「藍染」に通じるとして染色業者からの信仰が厚いとされ、山門付近の玉垣には、芸妓組合や染色関連業者らの名前が刻まれる。お寺付近の商店街にも「愛染」の名が付けられていて、往時の賑わいを今に伝えている。縁結びのご利益もあるそうなので、婚活中の善男善女もぜひお参りを。
(日曜寺 東京都板橋区大和町42-1=2009年12月15日巡礼)

 

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札所71番 遍照寺

日曜寺から旧中山道に出て、賑わいをみせる板橋宿の商店街を通り、札所71番の遍照寺へ。日曜寺からは歩いて10分少々、地下鉄の板橋区役所前駅からは5分ほどである。

遍照寺は真言宗智山派のお寺で、本尊は不動明王。1662(寛文2)年、当時は近隣で唯一の天台宗寺院として創建したが、廃仏毀釈の波にのまれて明治初めに廃寺。その後、成田講の道場として1881(明治14)年、朝日不動堂として復活し、戦後の1947(昭和22)年に寺格を得て、現在は成田山新勝寺の末寺となっている。

うなぎの寝床のような、間口の狭い敷地の一番奥に住居兼用の小さな本堂があるが、入り口が分かりにくい。
商店街にある「おかしのまちおか」の向かい、小さな喫茶店脇にある「旭不動堂」と刻まれた豊島札所の石柱と、区教委の解説板が表札代わりだ。

境内は宿場の馬つなぎ場になっていて、参道の脇には馬頭観音が祀られている。本堂には、豊島八十八カ所の原型の一つとされる豊島二十一カ所の納め札所となっていたことを示す扁額が、豊島八十八カ所のものとともに今なお掲げられている。昔の人の信仰の篤さを示すものと言えるだろう。
(遍照寺 東京都板橋区仲宿40-7=2009年12月15日巡礼)

 

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札所88番 観明寺

さあ、残る札所はあと一つ。遍照寺から旧中山道の商店街をJR板橋駅方向に進み、札所88番の観明寺に向かう。地下鉄の板橋区役所前からも、71番遍照寺からも歩いて5分ほどだ。

観明寺は真言宗豊山派のお寺で、本尊は聖観世音菩薩。1338(暦応元)年の開基で、1677(延宝5)年の中興開山と伝えられている。

このお寺も文殊院や遍照寺とともに江戸時代の板橋宿の中にあり、古くから信仰を集めていた。明治6年には、地域の繁栄を願おうと千葉の成田山から不動明王の分身を勧請。「出世不動」として、現在でもお参りの人が絶えない。お寺の前の商店街が「板橋宿不動通り商店街」と名付けられているのは、このお寺に由来する。

境内にはこのほか、もともとは加賀藩の江戸下屋敷にあったというお稲荷さまも祀る。参道入り口の庚申塔は、青面金剛像が彫られたものとしては都内最古で、現在は区の指定有形文化財だ。

観音さまやお不動さま、それにお稲荷さま…私たちのあらゆる願いや悩みを聞き届けてくれそうな、結願所にふさわしいお寺である。一見すると街中の普通のお寺だが、本堂の前には線香の煙が絶えない。現在でも地域からの信仰を集めている証だろう。
(観明寺 東京都板橋区板橋3-25-1=2009年12月15日巡礼)

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発願から9カ月。途中で思わぬアクシデントもあったが、年内に結願することができた。

都内の遍路というと、お四国に比べて楽そうなイメージがあるが、正直なところなかなか大変だった。本四国とは違って檀家寺ばかりの構成で、お札所の事情によって何度も同じ寺を訪ねることになった。また、お寺が無住になっていて納経所が人知れず変更されていたケースもあり、情報が少ない霊場を巡礼する難しさも実感した。
歩いた距離は150キロほどのはずなんだが…。

札所一覧の地図や朱印の一覧は近日中に整備しようと思っているし、巡礼の記録を何らかの形で後世に伝えたいとも考えている。

さあ、次はどこの札所を回ろうか…。

豊島八十八カ所巡り(20)

お出かけ 寺社巡礼 弘法大師霊場 御朱印 日記 豊島八十八カ所 霊場巡礼

6、7の両日は、例によって豊島八十八カ所のお参りに出かけてきた。
今回は、京浜東北線沿線のお札所を回る。

 

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札所30番 西音寺

JR京浜東北線を東十条で降り、今回の打ち初めになる札所30番の西音寺に向かう。東十条駅からは歩いて5~6分の近さだ。

西音寺は真言宗智山派のお寺で、本尊は不動明王。文明2(1470)年、太田道灌の帰依を受けて玄仲法印が創建したと伝えられている。

入り口に「檀家以外の入山を断る」という趣旨の掲示があるが、以前電話した折には「豊島巡礼は構わない」とのことで、脇の戸を開けて境内に入る。防犯対策で戸を開けるとかなり大きな音でチャイムが鳴るが、某コンビニのそれと同じメロディー。人気急上昇中の、「僧職系男子」こと蝉丸Pさんが住職を務めるお寺のチャイムも同じメロディーだそうだし、真言宗のお坊さんはこのメロディーが好きなのだろうか…。

境内は手入れが行き届いた、和風庭園のたたずまい。本尊の不動明王は、新義真言宗の始祖・興教大師が平安時代に自ら彫ったものとされ、開運や厄除けに霊験ありと古くから信仰を集めている。寺の前を通る岩槻街道は、江戸幕府の歴代将軍が日光参拝のルートに使った歴史の道。3代将軍・徳川家光は日光参拝に向かう途中、しばしばこの寺に立ち寄って休息を取ったという。広い境内と堂々とした伽藍が、歴史を今に伝えている。
(西音寺 東京都北区中十条3-27-10=2009年12月6日巡礼)

 

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札所29番 真光寺

西音寺から岩槻街道を南に下り、 札所29番の真光寺へ。西音寺からも、東十条駅からも歩いて6~7分ほど。豊島の札所にしては珍しく、この一帯は札番が続けて打たれている。

真光寺は真言宗智山派のお寺で、本尊は観世音菩薩。かつての火災で記録類が失われていて、創建された時期など詳しいことは分からない。

北区立荒川小学校の正門がある路地を進むと、突き当たりに山門があり、すぐに2階建ての伽藍がある。1階がコンクリート造りの客殿、2階が木造の本堂という構造は、豊島のお札所でたまに見られるタイプ。
境内に入ってすぐ右側の六角堂には、勢至菩薩を祀っている。かつてこの地域を治めていた豪族・豊島清光が、荒川で水死した子息を供養するために建立した「豊島七仏」の一つで、先の戦争中に真光寺に移されたとされる。

お寺のすぐ近くには、古墳に溶岩を積み上げ富士山に見立てた「十条富士塚」がある。現在でも6月30日と7月1日には開山祭が行われ、富士講の歴史を受け継いでいる。
(真光寺 東京都北区中十条3-1-5=2009年12月6日巡礼)

 

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札所73番 養福寺

真光寺の近くにある札所28番の地福寺は、ご住職が不在でお参りできず、日暮里の札所73番・養福寺にて6日の打ち納めとする。諏訪台通り沿いの、JR日暮里駅から西日暮里駅にかけての寺社が密集する一角にあり、日暮里駅からは徒歩5~6分ほど。

養福寺は真言宗豊山派のお寺で、本尊は如意輪観世音菩薩。1620(元和6)年、乗蓮和尚によって開かれたと伝えられる。かつては観音堂や地蔵堂なども備えた堂々たる境内で、西国・坂東・秩父の百観音の写しを祀り、参拝者でにぎわったという。残念なことに、太平洋戦争時の空襲で仁王門を残して伽藍を焼失。現在の本堂は昭和40年に再建されたもの。
焼け残った仁王門はその後、1701(宝永5)年の建立と分かり、1988(昭和63)年に荒川区の指定文化財となっている。

境内で目を引くのは、区の登録文化財になっている「自堕落先生の碑」。1700(元禄13)年に生まれ、中年時代までは武士をしていたが、「宮仕えは性に合わぬ」と職を放り出し、その後は酒と遊びと俳諧に明け暮れる生活を送る。40歳の時には、自らこしらえた柩に入り、この寺で〝生前葬〟を行うが、住職の読経中に柩から飛び出して参列者を驚かせ、その後は飲めや歌えの大宴会になったのだとか。
この碑も、自堕落先生が自ら建立したもの。江戸時代にもハチャメチャな人はいたのだ。
(養福寺 東京都荒川区西日暮里3-3-8=2009年12月6日巡礼)

 

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札所44番 延命寺

7日の打ち始めは、隅田川沿いにある札所44番・延命寺とした。王子で都電荒川線に乗り換え、荒川遊園前電停から歩いて6~7分、荒川遊園地のすぐそばにある。

延命寺は真言宗豊山派のお寺で、本尊は地蔵菩薩。応永年間、田端にある札所56番・与楽寺の本尊であるお地蔵さまの分身を、現在の荒川区西尾久6丁目付近に祀ったのがお寺の始まりという。その後、1678(延宝6)年、現在地に移って寺容が整ったとされる。

真新しい山門は閉まっていたが、脇のくぐり戸が開いていたので、そこからお参り。境内は静かそのもので、ここが東京23区内とは思えない。山門の脇には、1686(貞享3)年に建立された聖観世音菩薩をはじめ、1682(天和2)年の先住の塔、1712(正徳2)年の庚申塔の3つの石像が建ち、このお寺の歴史を伝えている。

隣接する荒川遊園は、23区内唯一の公営遊園地。園内では軽い食事もでき、隅田川を見下ろす広場もある。歩き遍路で疲れたとき、一息入れるのにもってこいの場所だ。
(延命寺 東京都北区堀船4-10-12=2009年12月7日巡礼)

 

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札所57番 福性寺

延命寺を出て、かつてはキリンビールの工場だった読売や日刊スポーツの印刷工場の脇を通って歩き、10分足らずで札所57番・福性寺に着く。直接訪れる場合は、都電荒川線の梶原電停から歩いて7~8分ほど。

福性寺は真言宗豊山派のお寺で、本尊は大日如来(胎蔵界)。火災に遭うなどして詳しいことは不明だが、1625(寛永2)年ごろ創建されたと伝えられている。かつては隣接する白山神社の別当を務めていた。

このお寺の見どころは、扁額をはじめ境内の至る所に掲げられている梵字の数々。お納経の対応をしてくださった先代住職の奥様の話では、その先代が梵字の専門家だったことから、今のような姿になったのだとか。梵字の研究で文学博士号を取られた、学究肌のお坊さんである。お寺を継がれた、息子さんに当たる現在の御住職はお医者さま。分野は違っても、学究肌の血は受け継がれているようである。

境内にある古い石造物の多くは、太田道灌につながる家系の武将・梶原源太政景が眠る「梶原塚」にあったもの。河川改修などの際、お寺の境内に移されたもののようだ。

写真の扁額の梵字、どうも山号や寺号ではなさそうだが、どういうものなのかを聞き漏らした。ご存じの方はぜひご教示を。
(福性寺 東京都北区堀船3-10-16=2009年12月7日巡礼)

 

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札所67番 西福寺

福性寺から団地沿いの道を進み、石神井川に架かる橋を渡ると札所67番の西福寺だ。JR王子駅からだと、歩いて15分ほど。

西福寺は真言宗豊山派のお寺で、本尊は阿弥陀如来。およそ1300年前、聖武天皇時代の開基と伝えられ、古くは長福寺という禅宗のお寺だったが、後に真言宗豊山派に属し現在の寺号に改められた。

このお寺は、江戸時代に隆盛を誇った「江戸六阿弥陀」の第一番として知られる。当時の本尊は行基作とされているが、1945(昭和20)年4月の空襲で焼失してしまった。現在では、当時の本尊を模した高さ5メートルの彩色された阿弥陀如来像が、本堂の横に建つ。

巡礼の折にぜひ見てほしいのが、山門を入ってすぐ左側にある「お馬さんの墓」。高知県に伝わる民謡「よさこい節」の歌詞に、♪土佐の高知の播磨屋橋で 坊さんかんざし買うを見た――とあるが、お坊さんがほれた相手が、西福寺に眠るお馬さんである。後に別の男性と結婚したお馬さんは、長男を頼って1885(明治18)年に上京し、その18年後にこのお寺の近くで生涯を閉じた。戦後、お馬さんがこの寺に眠っていることが過去帳から分かり、慰霊のための石碑を建立したという。
(西福寺 東京都北区豊島2-14-1=2009年12月7日巡礼)

 

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札所59番 無量寺

西福寺からいったん王子に出て、地下鉄に乗り札所59番の無量寺へ。地下鉄の西ケ原駅からも、JRの上中里駅からも、それぞれ歩いて7~8分ほど。旧古河庭園に近い、入り組んだ路地の奥のような場所にお寺があって、道に迷いやすいので注意が必要。

無量寺は真言宗豊山派のお寺で、本尊は不動明王。お寺の始まりについてはよく分かっていないが、境内から14世紀ごろのものとみられる板碑が多く出土していることから、鎌倉時代から室町時代にかけての開基とする見方が強い。

こちらは江戸六阿弥陀の第3番として知られ、山門の脇には大きな石柱が建つ。境内は手入れが行き届いていて、京都のお寺のようなたたずまいだ。庫裏にお納経に伺うと、対応してくださったのは尼僧さま。豊島の札所を随分回ってきたが、尼僧さまにお目にかかるのは初めて。納経の文字も女性らしい優しい感じで、飴玉のお接待を添えていただく気配りもさすがである。

本尊の不動明王は、「足止め不動」の異名を持つ。その昔、このお寺に盗っ人が押し入った時、ご本尊の前で急に足が動かなくなり翌朝捕らえられたことから、この名がついた。大師堂の中に祀られている観音さまには、雷よけのご利益もあるそうだ。同じ札番で御府内八十八カ所の札所を兼ねている。
(無量寺 東京都北区西ケ原1-34-8=2009年12月7日巡礼)

 

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札所28番 地福寺

7日の打ち納めは、お寺の事情で前日にお参りできなかった、札所28番の地福寺だ。JR東十条駅の南口から歩いて7~8分、岩槻街道沿いにある。

地福寺は真言宗智山派のお寺で、本尊は薬師如来。今から1000年ほど前、康平年間の開基という。

参道の右側には「茶垣の参道」と書かれた石灯籠が建ち、近くにはお茶の木が数本植えられている。説明板によると、日清戦争のころまでこの一帯ではお茶の栽培が盛んだったという。地区の特産物を後世に伝えるため、戦災に遭った本堂を再建するとき、参道の脇にお茶の木を植えたのだとか。現在の住宅密集ぶりからは想像できないが、かつてはのどかな農村地帯だったのだろう。

このお寺は、ハンセン病への理解を深める、さまざまな取り組みを進めていることで知られる。お納経にも「救らいの寺」という印が捺され、境内には関係する石碑も多い。御住職はその功績から、第30回正力松太郎賞を受けている。薬師如来を祀るお寺にふさわしい活動と思うのは、私だけだろうか。
(地福寺 東京都北区中十条2-1-20=2009年12月7日巡礼)

豊島八十八カ所巡り(19)

お出かけ 寺社巡礼 弘法大師霊場 御朱印 日記 豊島八十八カ所 霊場巡礼

1日は、例によって豊島の札所めぐりに出かける。いつの間にか残りが少なくなってきたことでもあり、年内に結願すべく気合を入れて回る。

 

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札所13番 重林寺

今回の打ち始めは、以前お葬式の真っ最中でお参りできなかった、池袋の札所13番・重林寺にした。真言宗豊山派のお寺で、本尊は不動明王。最寄りの東武東上線・北池袋駅から歩いて10分足らずだが、JR池袋駅からだと、北口から15分ほどで着く。

重林寺は真言宗豊山派のお寺で、本尊は不動明王。お寺が創建された詳しい時期は明らかでないが、慶安2(1649)年に亡くなった秀誉和尚を開祖としている。

頭上には首都高速5号線が通る川越街道に面した立地で、車の往来が非常に激しい場所だが、山門を一歩入ると中は静かそのもの。掃除が行き届いていて美しい境内には、天文24(1555)年に造られた庚申講関連の板碑や享和3(1805)年建立の百八十八カ所(四国と坂東、西国、秩父)巡礼供養塔があり、歴史をしのばせる。

このお寺には、弘法大師自筆とされる不動明王の画像が寺宝として伝えられている。明治23(1890)年の本堂の工事の折、梁から落ちた屋根職人が本尊に触れ、偶然発見されたものだ。まさに〝怪我の功名〟である。
また、大正12年の関東大震災で倒壊した以前の山門は、大久保彦左衛門の屋敷から移築したものという。
(重林寺 東京都豊島区池袋本町2-3-3=2009年12月1日巡礼)

 

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札所82番 西光院

重林寺からほぼ真西に歩き、札所82番の西光院に向かう。直接訪れる場合は、東武東上線の大山駅から川越街道を越えて歩いて15分ほどだ。

西光院は真言宗豊山派のお寺で、本尊は阿弥陀如来。詳しい開山時期は不明だが、過去帳の記載から元和2(1616)年以前の創建とみられている。

バス通りから駐車場を兼ねた広い参道が延びた先にある境内は緑に覆われ、23区内の寺院とは思えない雰囲気。庫裏の玄関前にある井戸には電気ポンプが設えてあって、いまなお現役のようだ。
山門の脇には薬師堂がある。正徳年間(1711~16)に当時の武将が妻の眼病平癒を願って建立したもので、秘仏の薬師如来のほか、日光・月光両菩薩や十二神将を祀る。山号や寺号に薬師如来を連想させる「医王山薬円寺」という名前が付いているのは、このためだろうか。

山門前のスダジイは樹齢400年以上の巨木で、板橋区の登録文化財になっている。 板橋七福神の大黒天を祀る。御開帳は元日から7日まで。
(西光院 東京都板橋区南町31-1=2009年12月1日巡礼)

 

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札所80番 西光寺

西光院からさらに西へほぼ一直線、札所80番の西光寺に向かう。1文字違いで札番も近接していて、ちょっと紛らわしい。日大病院のすぐ近くのお寺で、東武東上線の大山駅から歩いて20分強の道のり。山門が細い路地に面していて、人通りの多い商店街からはちょっと回り込む形になる。

西光寺は真言宗豊山派のお寺で、本尊は聖観世音菩薩。古くからこの地にあった観音堂に、地元の有力者が田畑を寄進したことがお寺の始まりと伝えられ、さまざまな資料から1640年代の開基であることは間違いないようだ。明治3(1870)年に当時の広沢賢隆住職が、境内に寺子屋を建てて地域の子どもたちの教育に当たったという資料が残る。

このお寺で有名なのは、「代かき地蔵」伝説。田植えを目前にして代かきが終わらず頭を抱えていた農民が、たまたま現れた若い僧侶にそのことを話すと、翌朝には代かきが終わっていた。驚いた農民が泥のついた足跡をたどると地蔵堂があり、中に祀られていた地蔵の足が汚れていたという。
豊島の札所でたまに見聞される農耕伝説の類だが、大昔のこの地域が農村地帯で、人々の信仰が篤かった証でもある。現在のご住職も、お地蔵さまのような柔和な方である。板橋七福神の布袋尊を祀る。
(西光寺 東京都板橋区大谷口2-8-7=2009年12月1日巡礼)

 

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札所22番 延命寺

西光寺からバスと地下鉄を乗り継いで、札所22番の延命寺へ向かう。都営三田線の志村坂上駅から歩いて5分ほどの、住宅街にあるお寺。

延命寺は真言宗豊山派のお寺で、本尊は地蔵菩薩。大永4(1524)年、北条氏が江戸城を攻撃した時に巻き添えになる形でわが子を失った、時の志村城主の家臣・見次権兵衛が自らの住まいを寺にしたことを開基とする。江戸時代には将軍が鷹狩りをするときの休憩所となった格式の高い寺で、当時は御座所や御成門もあったという。

境内には、板橋区最古の建長4(1252)年作の板碑や切支丹灯篭などがある。かつては「こぶ欅」とよばれた、幹の中央部に大きなこぶのあるケヤキの古木がそびえ立っていたが、現在は枯死して樹幹だけが保存されている。
(延命寺 東京都板橋区志村1-21-12=2009年12月1日巡礼)

 

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札所86番 龍福寺

延命寺から中山道を渡り、札所86番の龍福寺に向かう。こちらも住宅街の中にあるお寺だが、近くに目標となるような建物がなく、道に迷ってしまった。直接訪ねる場合は、都営地下鉄三田線の志村坂上駅から歩いて10分ほど。

龍福寺は真言宗智山派のお寺で、本尊は大日如来。室町時代末期、赤羽にある豊島札所69番・真頂院の隠居寺として創建された。

境内左側には、大き目の薬師堂がある。こちらに祀られている秘仏のお薬師さまは、お寺のある台地の下にあった荒川の「七々子崎(ななこざき)」という入り江から天長年間に見つかったものという。山号が「薬王山」とあるのは、このお薬師さまに関係しているのだろうか。ちなみに小豆沢という地名は、平将門への献上品を積んだ船がこの入り江で沈み、その積荷の小豆が流出したことに由来することが、お寺の古文書「薬師縁起」に記されている。

現在では隣接する龍福寺会館でコンサートなどを手掛け、文化行事に力を入れるお寺として名高い。
(龍福寺 東京都板橋区小豆沢4-16-3=2009年12月1日巡礼)

豊島八十八カ所巡り(18)

お出かけ 寺社巡礼 弘法大師霊場 御朱印 日記 豊島八十八カ所 霊場巡礼

21日は久しぶりに、豊島八十八カ所のお参りに出かけてきた。今回は北区内のお札所を巡る。

 

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札所69番 真頂院

以前訪れた時に法要中でお参りできなかった、赤羽の札所69番・真頂院からお参りする。

真頂院は真言宗智山派のお寺で、本尊は大日如来。大宮・浦和方面から上野に向かうJRの電車が荒川を渡ってすぐ、左側に大きな伽藍が見えるのでご存じの方も多いのではないだろうか。JR赤羽駅からは歩いて15分ほど。

環八通りとJR3路線の線路に囲まれるような立地で、電車も自動車も往来が激しいが、広い境内は思ったより静か。山門の扉は通常は閉ざされているが、脇にある駐車場から境内に入ってお参りできる。山門の脇のお堂には、正徳4(1714)年に作られたというお地蔵様が鎮座する。境内には元徳2(1330)年と記された石碑もあり、相当古いお寺のようだ。
開山当初は天台宗に属し、後に真言宗に転じた。初代住職が出身地の信州諏訪から1396年に勧請した諏訪神社の別当を、江戸時代まで務めていた。明治36(1903)年の赤羽大火では、地域の避難所として機能したという記録も残る。古くから地域コミュニティの中心となっていたのだろう。

歴史ゆえにお檀家さんの数が多いのだろうか。私が本堂の前でお勤めしているわずかな時間にも、墓参りの人が絶えない。
(真頂院 東京都北区赤羽3-16-3=2009年11月21日巡礼)

 

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札所38番 西蓮寺

真頂院から環八通りと北本通りを歩き、札所38番の西蓮寺に向かう。

西連寺は真言宗智山派のお寺で、本尊は阿弥陀如来。東京メトロ(地下鉄)南北線の志茂駅から「志茂銀座」と呼ばれる商店街を抜け、歩いて7分ほど。開基は弘安年間(1278~88)で、それを裏付けるように本尊の阿弥陀如来像は最近行われた修理で、鎌倉時代に作られたことが分かった。境内の板碑群ともども、北区の有形文化財に指定されている。

境内は枯山水の禅宗寺院のようなお庭になっていて、手入れが行き届いていて美しい。客殿は近年整備されたおしゃれな建物だが、和風の境内と不思議にマッチしていて、違和感がない。施主の意向を十分に理解した、建築家のセンスが光る。

このお寺の隠れた見どころは、100メートルほど離れた場所にある境外仏堂の「福聚観音」。コンクリート打ちっ放しの、ブティックのような瀟洒な建物の中に観音さまが祀られている。造り付けのおみくじ機は、百円玉を入れると、NHKテレビの「ピタゴラスイッチ」に登場するような仕掛けが動き、おみくじが出てくる仕組み。からくりがガラス越しに観察でき、子どもが喜ぶことは請け合いだ。
(西蓮寺 東京都北区志茂4-30-4=2009年11月21日巡礼)
※西蓮寺の公式ホームページはこちら

 

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札所39番 専福寺

西蓮寺から北本通りを南に進み、札所39番の専福寺へ。志茂駅から歩くと10分ほどか。墓地を貫くように延びる参道は、豊島のお札所でよく見られるタイプ。

専福寺は真言宗智山派のお寺で、本尊は薬師如来。寛文元(1661)年に江戸幕府の旗本が開いたお寺と伝えられ、地元では「神谷薬師」の愛称で親しまれている。

本堂には本尊とともに、「願地蔵」というお地蔵様を祀る。持ち上げると願い事がかなうのだそうで、子どもの健康や子育てのほか、豊作や不動産取引などにもご利益があるのだとか。

こちらのお寺は、お納経を頂く庫裏の入り口がちょっと分かりづらい。本堂手前にある一見すると玄関のようなドアは、客殿のもののようだ。回りこんだ場所にある庫裏のドアを開けると、かわいく人懐っこい猫が出迎えてくれた。
(専福寺 東京都北区神谷3-32-11=2009年11月21日巡礼)

 

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札所40番 自性院

専福寺から札所40番・自性院へはほんの数分。地下鉄利用だと、南北線の志茂、王子神谷の両駅ともに歩いて10分足らずの距離。JRの東十条駅からは15分強だ。

自性院は真言宗智山派のお寺で、本尊は不動明王。開基は明らかでないが、室町時代の板碑が残る古刹である。環七通りと北本通りが交わる車の往来が激しい場所にあるが、緑に覆われた境内は静けさが広がる。山門を入ってすぐ右側には、大師堂が建つ。

本尊には「水不動」の愛称が付いている。かつては水害に悩まされたこの地域で、水難除けの仏さまとして大切にされてきたのだろう。お寺の東200メートルほどのところには隅田川が流れる。昭和30年代の半ばまでは、現在の環七通り新神谷橋の付近に「宮堀(神谷)の渡し」があり、庶民の足として、また西新井大師の参拝客の輸送で多くの利用があったという。
(自性院 東京都北区神谷3-45-1=2009年11月21日巡礼)

 

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札所79番 清光寺

隅田川沿いに建つ団地や学校の間を縫うように進み、札所79番の清光寺に向かう。自性院からは15分ほど、東京メトロ南北線の王子神谷駅からは10分足らずで着く。

清光寺は真言宗豊山派のお寺で、本尊は秘仏の不動明王。11月3日の文化の日に本堂の落慶法要を行い、境内は装いを一新している。

このお寺の開基は、鎌倉時代に活躍した豪族・豊島清光とされ、寺号は彼の名にちなむものだ。
清光はかつてこの一帯を支配しており、霊場名や地域を表す「豊島」も、一族の苗字に端を発している。平家の流れをくむ一族でありながら、源頼朝をよく助けたことで知られる。15世紀に入ると、豊島氏は24番・自性院も舞台となった太田道灌との戦に敗れて安房(現在の千葉県南部)に逃れ、その後は悲運の歴史をたどる。

本堂には本尊のほか、区の文化財に指定されている清光の坐像を祀る。寛保2(1742)年に作られた僧形の彩色木像で、柔和な表情が印象的。本堂の前には清光の供養塔もある。
(清光寺 東京都北区豊島7-31-7=2009年11月21日巡礼)

豊島八十八カ所巡り(17)

お出かけ 寺社巡礼 弘法大師霊場 御朱印 日記 豊島八十八カ所 霊場巡礼

8日の日曜日は、例によって豊島八十八カ所の巡礼に出掛けてきた。今回は、日暮里・田端周辺のお札所にお参り。

 

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札所5番 浄光寺

JR日暮里駅を出て、まずは札所73番の養福寺に向かうが、あいにく法事の真っ最中。お参りをあきらめすぐ近くの札所5番・浄光寺にお参りする。

浄光寺は真言宗豊山派のお寺で、本尊は薬師如来。日暮里駅から西日暮里駅にかけて、JRの線路沿いに寺社が密集する地帯の中心に位置している。開基は定かではないが、鎌倉時代末期の武将・豊島左衛門尉経泰が、信州の諏訪大社から勧請した諏方神社の別当として創建したという伝承も残る古刹である。

境内に入ると、すぐ左側に高さ3メートルほどの、銅製の大きなお地蔵さまが祀られている。こちらは、「江戸最初の六地蔵」の3番札所として知られている。一般的に知られる江戸六地蔵は1708(宝永5)年に地蔵坊正元が発願し、主要な街道筋に建立されたものだが、浄光寺が属する六地蔵はそれより古く、1691(元禄4)年に開創されたものだが、こちらは現存するものが少なく知られているとはいえない。

荒川区地籍といえ、このあたりは一般的には“谷根千”の一角として認知されている地域。私がお参りしている間も、カメラを持った観光客の姿が目立った。
(浄光寺 東京都荒川区西日暮里3-4-3=2009年11月8日巡礼)

 

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札所56番 与楽寺

浄楽寺からJRの線路に沿うように田端方向に進み、札所56番の与楽寺に向かう。直接向かうなら、JR田端駅から歩いて5分ほど。

与楽寺は真言宗豊山派のお寺で、本尊は地蔵菩薩。弘法大師がこの地に寺院を建立したのがお寺の始まりと伝えられる。元々はこの周辺の本寺格で、広い境内や通りから延びる長い参道に往時の面影が残る。

本尊のお地蔵さまは弘法大師作と伝えられ、「賊除け地蔵」として親しまれている。はるか昔、与楽寺に賊が押し入った時、どこからともなく何人もの僧侶が出てきて賊の侵入を防いだ。その翌朝、本尊のお地蔵さまの足が汚れているのが見つかったことから、「賊除け地蔵」と呼ばれるようになったとされる。その時以来、本尊は秘仏になっている。

このお寺は江戸六阿弥陀の札所4番となっているほか、豊島霊場と同じ札番で御府内八十八カ所の札所にもなっている。多くの霊場の札所を兼務しているのも、歴史と格式ゆえか。
(与楽寺 東京都北区田端1-25-1=2009年11月8日巡礼)

 

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札所66番 東覚寺

与楽寺からいったん田端駅に出てランチ。その後は坂を下り札所66番・東覚寺に向かう。お正月に谷中七福神巡りで訪れたお寺だ。

東覚寺は真言宗豊山派で、本尊は不動明王。1491(延徳3)年、現在の千代田区万世橋付近に真言宗御室派の僧、源雅和尚が不動明王を勧請して寺を興し、慶長年間(1596~1615)の初めに現在地に移ってきたとされる。最近、道路工事に伴い境内は装いを一新した。

このお寺は、病気平癒にご利益のある「赤紙仁王尊」として有名だ。山門の脇にある不動堂の前に立つ2体の金剛力士像には、びっしりと赤い紙が張られている。病気に悩む人が、体の悪い所と同じ部分に赤い紙を張り、病気が治るとわらじを奉納する風習は現代にも受け継がれている。近隣の酒店では、「赤紙仁王尊」と名付けられた清酒も取り扱っている。

谷中七福神の福禄寿のほか、豊島と同じ札番で御府内八十八カ所の札所にもなっている。正月には七福神巡りの人でにぎわうが、来年(2010年)からは七福神の御開帳は期間が短くなり、1月10日までになるのでご注意を。
(東覚寺 東京都北区田端2-7-3=2009年11月8日巡礼)

 

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札所9番 光明院

東覚寺から、赤紙仁王通りを駒込方面に歩き、札所9番の光明院に向かう。歩いて5~6分の近さだが、山門が通りからかなり奥に入った所にあり、参道の入り口が見つけ辛いので要注意だ。JR駒込駅から直接訪ねる場合は歩いて7~8分ほど。

光明院は真言宗豊山派のお寺で、本尊は大日如来。詳しい開基は不明だが、1591(天正19)年の検地記録に白髭神社別当としてこのお寺の名前があり、少なくとも四百数十年の歴史を刻んでいることになる。

境内はかなりの広さだが、樹木が植えられお庭になっている部分はわずか。大半はお寺が経営している幼稚園の運動場として利用されているようだ。現在の伽藍は本堂と庫裏だけだが、1945(昭和20)年4月に戦災で焼失する前は、観音堂や薬師堂があったという。

庫裏でお納経を頂くと、豊島の札番印のほかに「滝野川寺院めぐり第5番」の印も押してある。応対してくださった奥様に伺うと、地元の滝野川仏教会が1993年に開創した霊場で、豊島56番でもある与楽寺から同12番の寿徳寺まで16カ寺を巡礼するのだという。私が昨年巡礼した行田救済菩薩霊場と同じような趣旨の霊場だが、滝野川の場合は日蓮宗や浄土真宗の寺院も加わっており、多彩な宗派により成り立っている点が興味深い。真宗系の寺は朱印を断るケースが多いのだが、札番印が存在するところを見ると真宗寺院でも納経は可能なようだ。機会を見て訪れたい。
(光明院 東京都北区田端3-21-5=2009年11月8日巡礼)

 

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札所21番 大龍寺

光明院から、今回の打ち納めとなる札所21番・大龍寺に向かう。光明院からは歩いて数分で、JR駒込駅からは徒歩10分弱だ。

大龍寺は湯島に本山がある真言宗霊雲寺派のお寺で、本尊は両部大日如来。慶長年間(1596~1615)に新義真言宗の「不動院浄仙寺」として創建され、安永年間(1772~80)に現代の名前に改め、霊雲寺派に属するようになったと伝えられる。現在の本堂は平成に入ってから建て替えられたもので、鉄筋コンクリートの堂々とした伽藍である。

このお寺の境内には俳人・正岡子規の墓があり、現在でもお参りする人が絶えない。墓地には子規のほか、陶芸家として初めて文化勲章を受けた板谷波山や柔道家の横山作次郎ら、多くの著名人が眠っている。ちなみに大龍寺は毎週月曜日が「定休日」になっている。お参りの時はご注意を。

(大龍寺 東京都北区田端4-18-4=2009年11月8日巡礼)

江戸観音巡りを再発願(9)

お出かけ 寺社巡礼 御朱印 日記 江戸三十三観音 観音霊場 霊場巡礼

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7日の土曜日は、江戸観音巡りに出掛けてきた。

今回は22番長谷寺(麻布大観音)を振り出しに、24番梅窓院(外苑前)→32番世田谷観音→33番目黒不動尊の順でお参りする。

家を出たのが遅かったのに加え、32番では地元美術館の団参と遭遇。ご住職から縁起を聞けたのは良かったが、時間を取られた…やっぱり32番は江戸観音有数の難所だw

納めの札所となる目黒不動尊に着いたのは3時半過ぎ。江戸観音の納経時間は札所会の申し合わせで4時までのはずで、慌ててお参りする。前回もそうだが、お参りを終えて納経帳に結願印を押していただくときの感動は格別。今後も精進しなければと改めて誓い、目黒不動尊を後にした。

豊島八十八カ所巡り(16)

お出かけ 寺社巡礼 弘法大師霊場 御朱印 日記 豊島八十八カ所 霊場巡礼

今年も早いもので、もう11月。1日の日曜日は豊島八十八カ所のお札所を回る。今回は北区内を中心に、4カ寺にお参りしてきた。

 

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札所47番 城官寺

JR上中里駅の南口から高台方向に向かう道を進むと、左側に札所47番・城官寺の山門が見えてくる。

城官寺は真言宗豊山派のお寺で、本尊は阿弥陀如来。江戸時代には道を挟んで向かい合う平塚神社の別当を務め、鍼医だった検校の山川城官や名医を輩出した多紀家と縁が深いお寺だ。境内にある多紀一族の墓は、都の史跡に指定されている。

お勤めをしようと本堂の前に進むと、「愛染明王拝観の方は寺務所まで」という張り紙がある。本尊は阿弥陀如来のはずだし、「?」と思いながら勤行を始めると、お寺の方が本堂の戸を開け、「中でお勤めしてください」と声を掛けてくれた。お言葉に甘えて本堂に上がると、先ほどの疑問は氷解。本堂の左側に、客仏のような形で愛染明王がお祀りされていた。
何でも、この秋に出たばかりの首都圏の仏像を紹介したガイド本にこの愛染明王が紹介され、それからお参りの人が絶えないのだそうだ。愛染明王は男女の仲に御利益のある仏さまだし、婚活の願掛けということか…きっと女性のお参りが多いのだろうな。愛染明王の隣には、一見マリア観音のようにも見える聖観世音菩薩の陶像が祀られている。東京芸大の教官を務めていた、日本の陶彫の第一人者・沼田一雅氏の作で、手の部分には戦災で焼けた浅草寺の灰が使われているという。近くで見せていただくと、確かに手の部分が灰色がかっている。

ちなみにこの本、豊島の発願札所・安養院をはじめ、豊島のお札所がいくつか紹介されている。ただ、説明の中に「豊島八十八カ所」の文字が一つも出てこないのは、巡礼者としては少し寂しい。同じ札番で御府内八十八カ所の札所を兼ねている。
(城官寺 東京都北区上中里1-42-8=2009年11月1日巡礼)

 

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札所53番 不動院

予定では城官寺の次に59番・無量寺にお参りする予定だったが、法事が立て込んでいるご様子でお参りは遠慮。近くの札所53番・不動院に向かう。

不動院は真言宗豊山派のお寺で、本尊は不動明王。今から400年ほど前の開基とされ、岩槻街道に近かったこともあり、江戸時代には将軍が鷹狩りをするときの休息所に指定されていたという、格式があるお寺だ。

伽藍はモダンな鉄筋2階建て。2階部分が本堂になる。その本堂へ上がる階段や山門の脇には、まだ新しい「碁」と書かれた黒御影の石柱が建つ。お寺で囲碁の会を催しているのだろうか。伽藍の正面には観音さまの石像が祀られ、その前に香炉が設えてある。2階の本堂の前には何もなく、「日常のお参りはこちらで」ということだろう。本尊のお不動様は護身や泥棒除けに霊験があることで知られている。

無量寺から不動院に向かう途中にある曹洞宗の昌林寺は、江戸六阿弥陀の番外「木残り観音」を祀る。時間に余裕がある向きは、こちらにお参りするのも面白い。
(不動院 東京都北区西ケ原3-23-2=2009年11月1日巡礼)

 

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札所62番 西福寺

続いては駒込にある札所62番・西福寺へ。歩いてみて分かったのだが、西ケ原から駒込までは案外近い。道を探しながらだったが、20分掛からなかった。

西福寺は真言宗豊山派のお寺で、本尊は阿弥陀如来。開基の時期は定かではないが、境内にある豊島区教委の解説板によれば、江戸時代には駒込の地に存在していたという。

このお寺のある辺りはかつては染井村と呼ばれ、植木栽培が盛んだった土地。日本の桜を代表する品種「ソメイヨシノ(染井吉野)」の生まれ故郷として知られる。山門の脇には「染井吉野の里」の石碑が建ち、歴史を伝えている。境内にはソメイヨシノの育成者とされる伊藤伊兵衛政武の墓地があり、都の史跡に指定されている。ソメイヨシノは「東京都の花」でもあるが故か。

お納経などを扱う寺務所の中には、江戸時代末期から明治時代初期にかけての一帯の様子を描いた絵地図が掲げられている。道沿いに桜が途切れることなく植えられていて、西福寺の境内は一面の桜で覆われている。花の時期には、吉野山のように美しい光景が広がっていたことだろう。境内では現在でも、桜の花を楽しむことができる。
(西福寺 東京都豊島区駒込6-11-4=2009年11月1日巡礼)

 

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札所36番 薬王院

駒込からJR山手線と西武新宿線を乗り継ぎ、下落合駅最寄りの札所36番・薬王院へ向かう。

薬王院は真言宗豊山派のお寺で、本尊は薬師如来。鎌倉時代の中期、源頼朝が深く帰依していた願行上人の開山と伝えられている。

「東長谷寺」の寺号を持つこのお寺は、本山の奈良・長谷寺と同じく花のお寺として知られている。とりわけ有名なのが牡丹で、1966(昭和41)年に長谷寺から移植されたのに端を発し、現在では約40種の牡丹が咲き競う、都内有数の牡丹の名所だ。開花時期には多くの見物客でにぎわう。このほか、梅や枝垂桜の花も見事で、首都圏にある100余りの花寺でつくる「東国花の寺」2番札所にもなっている。できれば、花の時期にお参りしたいものだ。

本堂も長谷寺を模した、舞台様式の伽藍。通常は寺務所のから見上げるような形でお参りするようだ。
同じ札番で御府内八十八カ所の札所を兼務する。
(薬王院 東京都新宿区下落合4-8-2=2009年11月1日巡礼)
※薬王院の公式ホームページはこちら

江戸観音巡りを再発願(8)

お出かけ 寺社巡礼 御朱印 日記 江戸三十三観音 観音霊場 霊場巡礼

3日の文化の日は、江戸三十三観音のお参りに出かけてきた。

今回は虎ノ門の20番・天徳寺を振り出しに、28番・金地院→21番・増上寺→26番・済海寺→25番・魚籃寺→27番・道往寺→29番・高野山東京別院の順番でお参り。

増上寺だが、大普請の関係で納経所の場所が変わっている。三門の脇にあるプレハブ造りの建物で、札所の西向観音からは結構距離がある。またスペースの関係で混雑が激しいので、お参りには時間の余裕を持って。

次回で結願にしたいのだが、「難所」で有名な例のお寺が残っているので、首尾よくいけるかどうか(笑)。

豊島八十八カ所巡り(15)

お出かけ 寺社巡礼 弘法大師霊場 御朱印 日記 豊島八十八カ所 霊場巡礼

24日の土曜日は、江戸観音巡りに併せて豊島八十八カ所にもお参りしてきた。今回は豊島区と新宿区のお札所を1カ所ずつお参りする。

 

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札所78番 東福寺

最近装いを一新したJR大塚駅の改札を出て、「天祖神社」の鳥居がそびえる南口に出る。駅舎を出てすぐ左側のパチンコ屋の所に「大塚三業通」の看板が出ているが、その通りが札所78番・東福寺への道だ。
かつての花街の名残なのか、連れ込み系ホテルが目立つ道を進むと、東福寺への看板が見えてくる。急な石段の上にある山門は閉じられているが、その右側にある車道を通ってお参りできるようになっている。

東福寺は真言宗豊山派のお寺で、本尊は十一面観世音菩薩。こちらの本堂は入り口が自動ドアになっていって、靴を履いたまま本尊を拝めるようになっている。バリアフリーを取り入れた様式で神社ではたまに見かける構造だが、街中のお寺でもこういう様式を目の当たりにするのは初めてだ。もちろん、中に入って御本尊を見ながらお勤めさせていただいた。

このお寺は当初は小石川方面にあったものが、元禄年間に今の場所に移ってきたとされる。山門に向かう石段の脇にある「疫牛供養塔」は明治43年の建立で、豊島霊場とほぼ同じ歴史を刻んでいる。現在では想像もつかないが、当時はこの周辺には酪農家が多く、病気で死んだ乳牛を供養するために建てられたという。その塔に刻まれる「牛乳搾取業」の文字も歴史を感じさせる。
(東福寺 東京都豊島区南大塚1-26-10=2009年10月24日巡礼)

 

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札所24番 自性院

江戸観音12番の傳通院と同16番の安養寺(神楽坂聖天)にお参りしてから、豊島八十八カ所の札所24番、自性院に向かう。

都営地下鉄大江戸線の落合南長崎駅から新青梅街道を哲学堂方面に向かうと、左側に自性院の通称である「猫地蔵堂入口」の看板や招き猫の石像が見えてくる。真言宗豊山派のお寺で、本尊は来迎阿弥陀如来。

自性院には2体の猫地蔵が祀られている。一つは、1477(文明9)年ごろの「江古田ヶ原の戦い」で、この近くにあった豊島城を攻め込んでいた太田道灌が道に迷い、自性院まで猫に導かれここで一夜を明かし、戦に勝利したことから、その猫の死後に奉納したもの。いわゆる「道灌招ぎ猫」伝説で、今は“婚活のお宮”として有名になった浅草の今戸神社や世田谷の豪徳寺とともに招き猫発祥の地とされる所以である。

もう一つの猫地蔵は、江戸時代中ごろの名和年間、ある貞女の死を悼んだ人が1体の猫の顔をしたお地蔵様をこの自性院に奉納したことに由来する。

猫地蔵尊は2体とも秘仏で、毎年の節分会の折に御開帳となる。最近は猫好きの人の参拝が多いようだ。
(自性院 東京都新宿区西落合1-11-23=2009年10月24日巡礼)

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